昭和42年12月25日  朝の御理解


 お願いをしてまいりますのにも、お詫びをしてまいりますのにも、または御礼を申してまいりますのにも、その御礼やお詫びが、または願いが、神様が聞き届けて下さったという、そういうしるしというか、実感というか、今日の願いは神様が聞き届けて下さったような気がする、いわゆる気がするという、それがおかげなんですよね。何か空々しい、神様が聞いておって下さるのやら、神様がその事を受けて下さっとるのやら分からない。これでは、信心、祈る事の、空しゅう感じます。そこでお互い信心の工夫をするわけでございますね。特に、この詫びる事。私共が厳密に申します日々の中にでも、どのくらい背信の行為をしておるか分かりません。いわゆる、神様の心に背く、または自分の心に背く、はあこんなこっちゃいけないと思いながら、そういう事をしておるご無礼というものは、本当に数限りもない事であろうと思います。それをだんだん分からせてもらいますね。分からせてもらうから、例えば詫びるんです。
 私はそういうお詫びをしても、何とはなしに神様が空々しゅう、特に、しかもね、私共のお詫びっていうのがもう本当にもう相済まん事ですけれども、毎日同じような事を詫びている。昨日も一昨日も一緒じゃったじゃないかと神様から言われりゃせんかというような、同じようなお粗末御無礼を毎日繰り返しておる。真に持ってその、相済まんことである。皆さんはどうでしょうか。背信の日々を過ごしておるわけです。ですからそれが本当は、その、日々お許しを頂きお詫びをしていかないとですね、もう前には進まれない気がするんです。これが溜まり溜まってめぐりになるかと思うたら、やはりここんところを詫びていき、すっきりしていかなければおられんのです。
 そこで私は、神様に気の毒か、仏の顔も三度というようなことわざがありますように、同じような事を繰り返して詫びておるという事の、心苦しさとでももうしましょうか。けれどもその、不思議にですね、御霊様、いうなら私の師匠である、師匠筋である、手続きの親であるところの、荒巻、初代の弓次郎先生とか、特にとりわけ小倉の初代桂松平先生あたりの御霊様に、すみませんけれどもあなたからどうぞお詫びして下さいというような願い、もう不思議にですね、その、実感が、自分が願うたのでは、自分が詫びたのでは許して頂けなかったようだけれども、桂先生のご信心を通して詫びてもろうたら、もうよかよか、んーならまたこうやってお詫びしてやろうと。これはもう人間関係の場合、人間同士の場合であっても同じ事が言えますね。自分では詫びが叶わんでも、知名の人であるとか、その人に信用を受けておる人から詫びてもろうたり願うてもろうたりすると、願いが叶うたり詫びが叶うたりするのと同じ事のような、そういう実感を私は感じます。実感いたします。有難い事ですね、そういう良い神様からご信用を受けられた先輩を持っておるという事は有難いです。皆さんそういうような事はないでしょうか。ないならそれを一つ試して御覧なさいませ、本当におかげを受けます。詫びる、願う、お礼を申し上げる、とりわけ願う事、詫びる事などもですね、私共が願うても詫びても空しいようなもの、受け答えもして下さらないような感じ、神様が遠いところにござるような感じ、かく聞こえなかったような風にしてござるような感じ、そういう時にですね、御霊様の御徳におすがりしてお詫びをさせてもらうと、本当に、御霊様に成り代わってお詫びをして下さる、成り代わって願うて下さるような気が致します。今日も私その事を感じ、どうも私の願いでは詫び足りない、聞き届けられなかったような気がします。それを私、桂先生の御霊様へお願い申し上げる時にです、その事を申し上げたら、もう神様では十ぺん繰り返しても受け答えがなかった感じのがですね、何か知らんけどお社の奥の方でですね、ウンとこううなずいて下さったようなおいさみを頂きましたですね。もう本当に私共それが有難い。私共生身を持っております凡夫の事でございますから、どこにお粗末やご無礼やらがあるか分かりません。そのお粗末(の者?)でございますけれども、その御無礼者でもございますけれどもです、そんなくらいな事じゃない、もう自分で感じておるもの、しかも日々、自分の背信行為というか、神様の心に背くところの生き方というものに、を、詫びて頂く、御取次を頂いて御霊様の御徳におすがりして詫びてもらう願うてもらうという、そこに本当に、今日もまた新な、まあ今日こそは、今日こそはというまた新たな心で今日一日取り組むことができるのでございます。そこんところを皆さん工夫なさらなければいけないと思います。人間だからこのくらいの事はもう当たり前のような考え方でです、ただ我が言う事だけ、我が願う事だけ、これではですね、本当にこの、信心を頂いておる本当にこの新味というものに触れられないですよ。
 昨日、一昨日でしたか、吉井の熊谷さんのお届けの中に、おばあちゃん、あなた毎日こうやって合楽にお参りしなさる。そりゃもちろん神様を信じきっておられるから、神様を身近に感じておられるから、その、合楽通いが楽しいわけなのですけれどもですね、私には一つもその、生神金光大神様天地金乃神様を唱えるにしてもです、何とも漠然としておる。つかみどころがない。そういう感じ。けれども、親先生と心に念じとる、親先生とお唱えするとですね、その親先生を通して神様が身近に感じる事ができるのですけれども、おばあちゃんあなたはどうですかというような、その、お孫さんと二人でお話があったとこういう事です。私は、熊谷さんそれですよ、本当に素晴らしいですね。してみるところ、本当に親先生たるもの、本当に信心にならなければなりませんね、そのくらい信者氏子の方から、親先生と唱えたらもう神様が身近に感じられるほどの親先生、いよいよ修行させてもらわなきゃなりませんなというて話した事でございますけれども、これは確かにそうです。どうでしょう皆さん、金光様というても身近に金光様を感じられない。生神金光大神天地金乃神というてもあまりにも漠然としておるけれども、何かの時に親先生とこう親先生をすがるところに、親先生を通して神様を身近に感じる事ができる。私(真実今日?)私が申しております事はその事なんです。そういう身近な神様を私共の心の中に頂いてのお詫びであり、または願いでなからなければならないという事なんです。
 生神金光大神様天地金乃神様どうぞお許し下さい、どうぞお願いいたしますと願いもすりゃ詫びもする。はたしてそれが聞いて下さっただろうか。そういう私は実感を求めなければならない。そこに工夫がいる。親先生、私が、今朝方も桂先生の御霊様にその事を御取次を願わせてもらい、本当に、もう度々の事で相済いませんけれども、親先生あなたのお徳でどうぞお詫びをして下さい、御取次をして下さいというて願わせてもらえばです、それが本当にこう受け入れられるという感じ、また受け入れたぞ、ならよし、私が詫びてやろう、願うてやろうと言うて下さらんばかりのおいさみを頂いては、心の中にこれでよかった、これで叶うたという気が致します。それがおかげなんです。もう信心はね、神様がこうしたいくら唱えましても、唱えるごと致しましても、空々しいものであってはなりません。そこでです、いろいろ工夫しなければいけません。
 私が神様を身近に実感させてもらえれる第一の方法は修行だと思います。本気で修行に取り組む事です。昨日学生会の、に、かたっておりましたから、朝から御祈念が繰り返し、繰り返しなされておりました。とりわけ大祓いを続けて、もうそれこそ力の限り、もう心、本当に声の出る限りを一生懸命で、もう本当にこの御広前が割れるような勢いで大祓いをみなさん奏上しておられます。二巻、三巻、上げていく内にです、もうそれこそ自分の体が左右に揺れておるのも気が付かないくらい、もう若い者の、とこう思われるような感じもするんですけれども、本当に振りとかなりとかはもう分からない、もう一心不乱、そしてもう顔を紅潮させて、それこそ何か感激、本当にこう泣き出さんばかりの、その、声を張り上げての大祓い奏上実習があっておりましたがですね、そういう修行をさせて頂くうちに、二巻目よりも三巻目、三巻目よりも五巻目に、こうやって私に神様が身近に働きかけておって下さるものを銘々も感じられるであろう、それを真から拝ませて頂いておってもそれを感じるんですよ。修行という事は有難いですね。修行させて頂きませんと神様を身近に感ずる事ができません。とりわけです、私は神様が私共に求めておられる修行に取り組む時に、神様をいよいよ身近に感ずる事ができます。とりわけ、例えば親先生の御説教、お話しを頂かせてもろうて、さあこれからはこういう修行に入りましょう、とこう、親先生が音頭を取って下さる、その音頭に応えるように、その修行に、あの、ならせてもらう時に、もう親先生と同じような神様を銘々感ずることができます。そういう私は工夫がなされなければならんと思う。
 私は今度の月次祭で、前夜祭を迎え、元旦祭を迎えさせてもらう迎える心を作りましょう、もう八日間本気でその修行に取り組ませてもらおう、銘々の信心の度合い、程度に応じての修行に入らせて頂こうと、皆さんにこう、皆さんにその事を私が音頭を取る。それに皆さんが応えて昨日もいろいろな、年末までこういう修行をさせてもらいます、ああいう修行に入らせてもらいますというてお届けがございます中にです、これも、今あの申しました熊谷さんのところの(雅代?)さんの事でございます。お月次祭の帰りに、バスの中で、おばあちゃま、今日の親先生のお話を頂いておって、おばあちゃまどげなん年末まで修行をしなさるですかち言うてから、実際、本当は先生、私は本当にその事を考えてもおりませんでした。お説教を頂きましたけれども、お話を頂きましたけれども、私はそういう人が多かったんじゃなかろうかと思う。お説教を頂き頂き、はあ本当に八日間こういう修行をさせてもらうぞと本当に思うた人が何人おっただろうか。してみるとあのお説教は本当に空しい事であった。ただ耳から、その、こっちの耳から入ってこっちの耳に抜けておってしもうたという感じですけれどもです、(雅代?)さん、そこんところを、若い人達はそりゃあいいですね、純真ですから。それを全身に受けとめておる。おばあちゃま、あなたは、年末までどういう修行をなさいますかと問われた時にです、ありゃあ、私は本当修行の事は思うてもいなかった。毎日修行ができておるから、まあそれでもいいでしょう。けれどもとりわけ先生がみんなにあげん言って下さった、音頭をとって下さったんだから、それに私は、それに合わせていかなければ本当の事じゃないと思う。
 私が、おばあちゃん、年末までにテレビを見ないことに神様にお誓いしたいと思う。もうあくる日にはちゃんとお三宝の下にテレビを見ませんというて誓いの書いたものがお供えしてあったという事でございます。私は昨日、そういう方達の二、三人の御取次をさせて頂いてから思うたんですけれどもね、私は、今度皆さんが修行されるそういう修行を私も一つ一つさせて頂こうか、私も昨日からだからテレビを見らない事に決めました。もうそういうね、生きたそういうものはですね、人にそうして伝わっていくのですよ。有難い。
 今日私皆さんに言おうとしておる事はです、祈る事、その内容が特に詫びる事願う事、いくら詫びても詫びてもその詫びが許されたという感じがしない、どんなに願うても願うても神様はよし引き受けたと言うて下さるような感じがしない。それではです、祈っても何もならんような空しさを感ずるだろう。そういう時がお互いがあるだろう。そういう時には私が、今朝の例を持って言うと、初代の桂先生の御霊様に、実はこうこう神様にお詫びもさせてもらいましたけれども、どうも聞き届けて頂けなかった感じが致します。どうぞ桂先生、あなたの御徳におすがりしてこの事を詫びて下さいというてお詫びを、この、のお徳でお詫びが許される。聞き届けられる、そういう実感がした時に、あのお社の奥の奥の方で感じるような、何とも言えん有難いおいさみを頂く。はっ、聞いて下さったんだ、と私はそこんところを皆さんに聞いて頂きたいと思うておるのですよ。信心には何というてもその実感が伴い、実感を持って交流しなければなりません。その手立てとしてです、とにかく修行が必要だ。修行させてもらうところに神様を身近に感じる事ができる。(雅代?)さんの例をとりましても、神様というてもいかにも漠然としている、身近に感じられないけれども、親先生と御取次を願う気持ちで親先生を唱える、そこに、親先生を通して神様を、金光様を感じる事ができるという、(雅代?)さんのそういう一つの工夫というか、私は本当に素晴らしい事だとこう思う。とりわけです、神様が求め給うところの修行、いうなら先生が求め給うところの修行、いうなら先生と同調したところの修行、そういう修行にね、入らせていただく事によって神様を身近に感じる事ができる。いわゆる今日は神様を身近に感じれる方とでも申しましょうかね、そういう事を皆さんに今日は聞いて頂いたわけなんですけれどもね、皆さん、いろいろに工夫してごらんなさい。神様を身近に感じる、私は工夫がまだまだなされなければならない。そこから本当に私共が日々の願いをね、聞き届けて頂けれる、お詫びもお許し頂けれる、と思い、思える祈りが捧げられる。そこに信心頂いておるものがです、いつも我神と共にあり、いかに言うたところでです、どこに神様がござるやら分からんのに我神と共にありじゃいかんでしょうが。本当に実感して神様と共にあるんだなあとこう思わせてもらうところからです、有難い、本当に勿体無い事だというものが、いよいよ強うなってくるのじゃないでしょうかね。そういう神様を私共が頂いていきたいと思う。
 どうぞ。